おおいた百景

桜ケ丘聖地〈陸軍墓地〉(大分市駄原〈だのはる〉)

大分市の桜ケ丘聖地には,いわゆる「シベリア出兵」にともなう戦死者を祀っている。
陸軍墓地
内外の批判を顧みず,大陸での権益確保を目論んで強行された(出兵の名目は孤立したチェコスロバキア軍の救出)シベリア出兵は,莫大な浪費とおびただしい兵士の死という結果におわり,なんの成果も得られなかった。なかんずく大分歩兵第72連隊の第3大隊(田中勝輔大隊長)の207人がユフタで全滅したのは最大の悲劇のひとつであろう。
1918年8月2日,72連隊に動員令が出て,第12師団の指揮下でシベリアでの作戦に当たることになった。9月1日にウラジオストク上陸。翌1919年2月,革命軍集結の情報を受けて田中大隊がスクラムスコエ村に進むことになった。2月25日には香田驍雄の率いる斥候小隊45人が敵400人と遭遇し全滅。翌26日には,ユフタ郊外で田中大隊162人が全滅。さらに,田中隊を追った森山俊秀中尉(庄内町出身)の歩兵・砲兵隊121人も全滅した。
その後も72連隊は黒龍江州で任務に当たっていたが,3か月後,第12師団に帰還の命が下り,72連隊も7月に大分に帰還。8月に蓬莱公園(今の春日神社)で「第12師団臨時招魂祭」がおこなわれた。

陸軍墓地
桜が美しく大分市街地の眺望もいいが,中心部からやや離れているため,あまり知られていない。また,なにか憚るところがあるのか,この地を載せていない地図も多いようだ。(「陸軍神社」と書かれた古い地図もある。)


上記の末尾に個人的な疑問を記したが,最近,偶然目にした書籍に「シベリア出兵を論じることは一種のタブーになっている」という意味のことが書いてあった。
その理由は,ソビエト側に日本軍をはるかに上回る犠牲者が出ていることや,革命軍側に対する日本軍による残虐行為の存在などにより,この「出兵」が,かならずしも日本にとっての悲劇だとは大きな声で言えない側面があるかららしい。
真偽はさておき,いずれにしても,「シベリア出兵」については歴史の授業で習った記憶もないし,明治期を回顧する報道などでもほとんど扱われない話題であることは事実のようである。
また,旧ソ連・ロシアも,なぜかこの問題を避けているようだが,先方には「シベリア抑留」という触れられたくない「傷」があるからか?

(大分市駄原,JR大分駅から徒歩25分)
2004.4.5


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