にいがた百景

芭蕉句碑・浮身塚(新潟市中央区古町通〈ふるまちどおり〉)

船江大神宮の芭蕉句碑
この石碑は,古町通一番町の船江大神宮の境内にある芭蕉ゆかりの句碑・浮身塚である。
安政四年(1857),地元の句会(柳々舎)によって建てられたもの。

船江大神宮の芭蕉句碑
海に降る 雨や戀しき うき身宿

松尾芭蕉(1644-1694)は元禄二年(1689)六月末に越後に入り,七月二日に新潟の町に到着した。この句の背景には,宿が見つからずに難渋したその日の体験があるとされている。
しかしこの句は「奥の細道」には見えず,芭蕉没後の寛保三年(1743)に刊行された『藻塩袋』(沾凉著)なる俳書に「北國にて」という前書きを付して収めるものである。

曽良の「随行日記」には「大工源七母 有情」という記述があり,これと「海に降る…」の句を関連づけることにより,さまざまな想像・臆測が生まれた。
曽良の記述が「大工職人の源七の家」に世話になったことを意味するのか,「大工」という屋号の旅館であったのか,はたまた,この宿は遊女屋だったのか,などをめぐって諸説がある。また句中の「うきみ」が,雨のなかで宿を求める芭蕉自身の姿(憂き身)なのか,遊女(浮き身)をさすのか,解釈がわかれるところでもある。
この句を収める『藻塩袋』は,「うき身宿」の語に次のような注釈を付している。

越前越後の海邊にて、布綿等の旅商人逗留の中、女をまうけ衣の洗い濯ぎなどさせてたゞ夫婦のごとし、一月妻といふ類也。此家を浮身宿といふ也。

この説によるなら,芭蕉が泊まったのは一種の遊女屋であったということにもなろう。元禄のころ,古町三ノ町(現在の古町通五番町)には旅籠が,また神明町(現在の古町通三番町)には遊女屋があったという。
なお「大工源七」の家をイメージして制作されたといわれる芭蕉堂(吉原芳仙作)が護国神社の境内にある。

(新潟市中央区古町通一番町500船江大神宮境内:JR越後線白山駅から徒歩15分)
2003.1.1,2007.7.13


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