にいがた百景

殉節之碑(新潟市中央区西大畑町〈にしおおはたちょう〉)

大神宮境内の殉節之碑
殉節之碑(じゅんせつのひ)は,新潟大神宮の境内にある。
戊辰戦争(1868-1869)で,会津藩の軍は米沢藩兵とともに新潟港を守備していたが,軍艦で上陸した新政府軍に圧倒されて敗走した。
多くの戦死者が出たが,「朝敵」である会津藩士の死者は埋葬が許されなかったという。(昭和の末になって,新潟大学の敷地内で東軍戦死者と思われる多くの人骨が発見され,護国神社境内の戊辰役殉難者墓苑内に「東軍慰霊碑」が建てられた。)
戊辰戦争十三回忌に当たる明治二十三年(1890),津田耕平,鹿野治郎らが主唱して慰霊のためにこの碑が建てられた。
撰文と書は,旧会津藩士で日新館教授などを務めた南摩綱紀(なんまつなのり,1823-1909),篆額(殉節之碑)は藩主の松平容保(まつだいらかたもり,1836-1893)による。

以下に碑文の全文を示す。
(句読と改行は niigata-u.com の解釈による。□は,原文にある空格を示す。一部の字体・字形は,通行のもので代用した。)

從三位松平容保公篆額
人臣之所重、在忠義節烈、如我會津藩殉難諸士、可謂能盡之者矣。
幕府之末、造綱紀内紊、洋虜外窺、狂頑激徒乘其間、或嘯聚山澤、或進犯□禁闕。當此時、藩主松平容保公、守護京都獨當其衝、拮据綢繆不遑寢食。□先帝嘉其忠誠、屡賜□宸翰金帛褒賞之。既而事皆齟齬、遂爲戊辰之變、我藩首受海内之兵、於是壯丁出禦四彊、老少婦女亦執戈奮戰、破堅挫鋭、以當強敵、死者殆三千人。
夫食人之禄者死其事、受人之恩者不避其難、人臣之職分諸士能踐之、一死以報其主、其忠義節烈、足以照千秋矣。
抑方今日月清明、四海一家、嚮之敵視者、皆握手笑語共浴□聖澤。而諸士獨不與焉、幽魂永迷寒煙荒草之下、吁亦可悲也。
今茲庚寅爲二十三回忌辰、大庭津田鹿野諸氏與同感諸人、謀建碑於越後新潟神宮教會境内、以吊其靈、使余記之。蓋余亦與諸士同遭戊辰之難、幸出百死得一生、今列朝官之末、頭童齒豁、而不能成一事、豈無忸怩哉、乃係之銘曰、
山河破碎、一死報主、其氣其節、維忠維武、嚴霜烈日、芳名萬古、
明治二十三年十一月
 高等師範學校教授 從六位 南摩綱紀撰并書

碑文には,京都守護の重責を果たした松平容保公は朝廷の覚えもめでたかったこと,行き違いから戊辰の変となり多くの死者を出したこと,会津藩の禄を受ける者として死をもって藩主の恩に報いた忠節は不滅であること,今,皆が恩讐を超えて天皇の恩沢に浴しているが会津藩の死者の魂魄だけは救われていないこと,などが綴られている。
裏面には建碑の経緯を記した「碑陰記」が,側面には義捐金拠出者の一覧も刻されている。

(新潟市中央区西大畑町)
2016.6.21


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