にいがた百景

竹内式部出生地(新潟市中央区本町通九番町〈ほんちょうどおりきゅうばんちょう〉)

竹内式部出生地
竹内式部(たけのうち しきぶ,1712-1767)は,江戸中期の思想家である。本名は竹内敬持(たかもち)。医者の家に生まれた。
今,本町通りに出生地を示す標柱が立っている。
竹内式部出生地の石標
式部は,十五歳のころ新潟を離れて上京した。公家の徳大寺家に仕え,山崎闇斎(1619-1682)の門下生について儒学と神道を学び,尊皇思想の基盤を固めた。
その後,塾を開いて公家に儒学や垂加神道を講じた。式部の思想は幕府の専横に憤慨する青年公家層の支持を得た。
こうした状況を,秩序を乱すものと考えた一部の公家が式部門下の公家を処分し,さらに式部を京都所司代に告訴した。
幕府側も尊皇論の拡大に不穏なものを感じて弾圧に乗り出し,式部を首謀者として重追放(追放刑のもっとも重いもの)とし,式部は伊勢に移った。これを「宝暦事件」(1758)と呼ぶ。
八年後の明和三年(1766),式部の友人の藤井右門らが不敬罪に問われ死罪となる「明和事件」が江戸で起き,竹内式部も連座して八丈島への流罪と決した。
明和四年(1767),式部は移送の途中,三宅島で病死した。(没した日は明和四年の12月5日で,新暦に換算すると1768年1月24日となる。)

生家跡から北西に800メートルほど離れた新潟市日和山墓地に式部の墓が,西船見町の西海岸公園(二葉公園)には竹内式部像が,また白山公園には竹内式部碑がある。

(新潟市中央区本町通九番町,四ツ屋町)
2007.7.8, 2008.9.4


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