諸国神社めぐり

有氏神社(神川町下阿久原〈しもあぐはら〉)

有氏神社の鳥居
有氏神社(ありうじじんじゃ)は,JR児玉駅(八高線)の南西8キロメートルに鎮座する。社地は,群馬県と埼玉県を分けて流れる神流川(かんながわ)の右岸である。このあたりは寒桜の多いことで知られる。
当社は,武蔵児玉党の始祖,有道氏(ありみちし)を祭った神社だとされている。
藤原伊周(注)に仕える有道惟能(維能とも)は,主君の伊周が失脚したため武蔵国児玉郡に下向した。これ以後,地名をとって「児玉」を氏とするようになったのである。有道惟能の子の有道惟行(維行とも)が児玉党の祖とされている。
(注)ふじわらのこれちか,974-1010。藤原道隆の子で中宮定子の兄。官は内大臣に至ったが,父の没後,叔父の道長と争って失脚した。

有氏神社境内
簡素な社殿が建っている。新しいが重厚な造りである。古来,当社には本殿はないとされている。
有氏神社社殿児玉氏の家紋・軍配団扇
社殿の破風には,児玉氏特有の「軍配団扇」紋があしらわれている。

児玉氏遠祖の墓所とされる石祠有氏神社社号標
当地の伝承によると,かつて神社の北側にあった石塔を北東寄りに移した時,石塔の下から人骨が発掘されたという。石塔は有道氏(児玉氏)の遠祖の墓所で,この墓所を神体として祖霊を祭るために建てられたのが有氏神社だと推測される。「当社には本殿がない」とする伝承と考えあわせると,この墓所が当社の御神体に相当するのであろう。石塔は,室町後期から江戸初期の建立と推定されている。
すなわちこの石塔と被葬者(有道惟行?)こそが,全国の児玉氏の祖先を偲ぶ遺跡なのである。
鎌倉時代,児玉氏は承久の変で軍功があり安芸国豊田郡竹仁村(広島県)に領地を得た。また中国朝鮮連合軍による侵略行為に対抗するため,武蔵児玉党から西国に派遣される者が多かった(文永の役,弘安の役)。戦後もそのまま西国に土着する者が多く,現在の児玉氏の分布は広島県や九州を中心とする。

境内にはいくつかの小祠のほか,「有氏神祠碑」と題する明治二十六年の石碑(中條政恒撰)と,有道維行の生誕一千年を記念する石碑(平成十二年)が建っている。
当社から3.5キロメートルほど下った二ノ宮に鎮座する金鑽神社(かなさなじんじゃ)は児玉党が崇敬した古社である。

(埼玉県児玉郡神川町下阿久原)
2006.11.18


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