諸国神社めぐり

倉賀野神社(高崎市倉賀野町〈くらがのまち〉)

倉賀野神社社頭
倉賀野神社(くらがのじんじゃ)はJR(高崎線)倉賀野駅の南西600メートルに東向きに鎮座する。
社伝によれば創立は崇神天皇(第十代)の御代である。
東国平定を命じられた皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が,天皇から授かった亀石(倭大国魂神の御分霊)を御霊代として陣中(現在の社地)で祭祀をおこなったのが当社の発祥であるという。
大同二年(807)には凱旋途中の坂上田村麿が舞楽を奏上したという。
建長五年(1253)に倉賀野三郎高俊が社殿を造営してより,倉賀野氏の氏神とて崇敬され,これ以後,倉賀野氏による社殿の建替や修復が続いた。
倉賀野神社拝殿正面倉賀野神社拝殿社号額
拝殿に「倉賀野神社」と「飯玉大明神」の額がある。「飯玉大明神」については以下の伝承がある。

光仁天皇(第四十九代)の時、地頭の群馬太夫満行に8人の子があり、文武に優れる末子の八郎満胤が兄に妬まれ鳥啄池(とりばみいけ)の岩屋に幽閉された。
恨みを抱いた八郎は大蛇に化して兄に復讎し、さらに多くの生け贄を求め人々を苦しめた。
小幡宗岡の娘(海津姫)が贄の番となったところに、奥州へ向かう宮内判官宗光がこれを知り、海津姫を伴って大蛇に近づいた。
宗光が一心に琴を奏で、観世音菩薩の名を唱えると大蛇は改心し、「自分の名は「飯玉」で,以後は衆生を守護する」と語って去った。これによって社殿を建てて「飯玉大明神」とした。

上記の伝承により「飯玉大明神」と称したが,明治十年(1877)に「大国魂神社」と改称し,同四十三年(1910)に近隣の神社を合併して倉賀野神社と改めた。祭神は大国魂大神である。

倉賀野神社拝殿向拝柱木鼻倉賀野神社拝殿向拝の宮内判官宗光
拝殿は,明治十三年(1880)の完成である。向拝に,琴を奏でる宮内判官宗光の姿が彫られている。

倉賀野神社本殿倉賀野神社本殿
本殿は慶応二年(1866)完成の記録が残っている。流造で,背後の屋根に唐破風が見られる(正面にも唐破風があるという)。
倉賀野神社本殿彫刻倉賀野神社本殿彫刻倉賀野神社本殿彫刻
元治元年(1864),信州鬼無里村で活躍していた彫師の北村喜代松が倉賀野に来て社殿の造営に参加した。

倉賀野神社境内社
横長の建物に末社がまとめられている。風神社(級長津彦神,級長戸辺神),雨神社(天水分神,国水分神),海神社(大綿津見神),火神社(火迦具土神),金神社(金山彦神,金山姫神),山神社(大山祇神),木神社(久々能智神),土神社(埴安神),水神社(弥都波能売神),大歳御祖社(大年御祖神),天神社(菅原道眞公)で,天神社の前にだけ鳥居がある。
その横の白壁の建物は神輿庫(天明四年に大阪で作られた神輿を収める)。
倉賀野神社境内の北向道祖神前倉賀野神社境内の北向道祖神
境内の隅に北向道祖神(猿田彦大神)がある。
このほか冠稲荷神社と甲子大黒天社の祠もある。

(群馬県高崎市倉賀野町1263)
2016.10.30

倉賀野神社 公式サイト(公式サイト)


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